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横濱・コスモポリタンの群像

【2017.03】 戦争写真家のシャングリ・ラ
       フェリーチェ・ベアトの見た日本

「シャングリ・ラ」
 一九三三年、イギリスの作家、ジェイムズ・ヒルトン『失われた地平線』に登場するチベット奥地をモデルにした架空の桃源郷。
 第一次大戦で心の傷を負った英国領事の主人公が暴動を逃れて搭乗した小型機の事故により不時着したシャングリ・ラの僧院で大ラマに啓示を受ける物語。


一九一三年十月二二日、ロバート・キャパことフリードマン・エルネー・エンドレは、ハンガリー・ブダペストの仕立屋の息子に生まれた。この機智溢れた人好きのする少年はやがてベルリンに学び、不自由なドイツ語へのコンプレックスから表現手段としてのカメラを手に取る。ナチスドイツに蹂躙される母国を離れ、スペイン内戦の「崩れ落ちる兵士」や、ノルマンディー上陸作戦の「Dデイ」等の写真を世に問い戦場を記録し続けた。一九五四年五月二五日、第一次インドシナ戦争の従軍取材中、地雷に触れ四十歳の生涯を閉じる。彼が死地を訪ねる直近の二週間、日本に滞在した事を知る人は少ない。戦後九年、平和日本の人々の生活を切り取った写真を、キャパは束の間の安らぎの中で遺していった。


前回ご紹介した「ポンチ絵の始祖」チャールズ・ワーグマンとバンド二四番で約四年間「ベアト&ワーグマン」なる共同事業を営んだ、フェリーチェ・ベアトもまた、ヨーロッパ辺境に生を享けて写真家となった。ベアトは永らくヴェネツィア生れのイタリア人で後にイギリスに帰化したと紹介されてきたが、ギリシャ西方イオニア海に浮かぶコルフ島に一八三四年に生まれたことが判明した。ベアト生誕時、コルフ島はヴェネツィア共和国を滅ぼしたナポレオンの衰亡に伴いイギリス領だった。彼はイギリス領下の元ヴェネツィア領民、生粋のイギリス人だったのだ。一方でイギリス国籍の癖に英語が不得手であった、と記録されている。


ベアトは、ギリシャ北部を支配するオスマン帝国造幣局の技師、イギリス人写真家ジェームズ・ロバートソンと一八五〇年頃知り合い、兄アントニオと共に写真技術を学ぶ。ロバートソンが一八五五年、イギリス従軍記者としてクリミア戦争に派遣されると、ベアト兄弟も助手として同行し、一八五八年には、インドでセポイの反乱を撮影し、ベアトは戦争の残虐さをリアルに伝える写真を残す。シカンダルバーグ宮殿で虐殺されたセポイ傭兵の人骨が散乱する写真や、絞首刑されたセポイの写真である。かくしてベアトは、戦争における死体を最初に撮影した写真家として歴史に名を留める。ヴィクトリア朝の上層階級のモラルに準じたロバートソンには踏み越えられぬ一線であった。


一八六〇年、ベアトはイギリス軍に従軍し第二次アヘン戦争下の中国に渡る。ここでも彼は北京南東の大沽砦で中国兵の死体が散乱する城壁内部を、更に大胆にかつリアルに撮影している。この時、香港で『イラストレイティッド・ロンドン・ニューズ』(以下「ILN」)特派員のワーグマンと知り合い、一八六三( 文久三)年春、二年前に開港地横濱に先行したワーグマンを追ってベアトは来濱する。


当時の写真技術は「湿板写真」と呼ぶ、ヨウ化物を混合させた膠状の粘液を塗布した無色透明の硝子板を硝酸銀溶液に浸しヨウ化銀の感光膜を作ったものを、湿った内に撮影して塩酸鉄溶液で現像し、シアン化カリウム溶液で定着させネガを作るという技法を用いた。露光時間は五〜一五秒、画質も不鮮明で、大きな写真機材に加え、撮影現場でこの作業を写真家自ら行うため、一刻に生命を委ねる戦場での撮影向きではない。これがワーグマンとベアトの共同事業の背景にある。例えば、前回ご紹介した高輪・東禅寺の襲撃事件の映像化は、目視による画家の記憶に頼るしか術はなく写真の出る幕ではない。一方で風景のような静物は、画家のスケッチより早くかつ正確に記録できる写真が優る。これをうまく補完できないか、というのが共同事業の着想だった。事実、ワーグマンの描いた絵をベアトが写真に複製・販売し、ベアト撮影の写真をワーグマンが線画に再構成してILNに掲載している。


戦場で死屍累々たる惨状を見てきた戦争写真家ベアトの目に、日本はどう映ったのだろう。幕末から明治初期に来日した外国人が日本人の美風に与えた賛辞は、歴史家・渡辺京二『逝きし世の面影』に縷々記されているが、ベアトは映像にこれを刻んだ。当時、外国人の自由な行動範囲は条約により居留地から十里以内と定められたが、ベアトとワーグマンは後にイギリス公使となる外交官サトウに同行し外交特権を利用して各地を巡った。一八六四(元治元)年の下関戦争(長州藩対四カ国連合軍)にも従軍し、イギリス軍に制圧された前田砲台の有名な写真を残している。と同時に各地の江戸期庶民の生活、自然に恵まれた風光明媚な風土、そして名所旧跡を次々に写真に収めていった。


ベアトには写真をビジネスと捉える的確な才覚があった。ILNに掲載されたワーグマンの開国後日本の事物紹介が西欧の耳目を集め、日本文化への関心が高まると、彼が編纂した写真アルバムViews in Japan瓩枠鷯錣聞眞佑杷簀磴気譴拭そこには滞日経験の長いイギリス将校による解説文が付されている。「風呂帰りの若い女性」と題された写真と解説文を見てみよう。「夕刻になると日本の若い女性は皆風呂屋に行く−どの村にもこの便利な施設がある。そこはいわば国事が議論される集会所、地方議会であり、女性も排除されることなく、男性と対等に集う。風呂の目的は、清潔というより寧ろお湯による楽しい感情になる快楽にある。」(抄訳)


ベアトは横濱にも貴重な遺産を供している。一八六三(文久三)年の夏と秋に撮影された、横濱居留地を山手から俯瞰するパノラマ写真である。左右に延びる堀川の正面に前田橋が見えることから、現在の「霧笛楼」裏手にあった元町百段上辺りからの撮影と思われる。左手に吉田新田、右手には停泊中のイギリス艦隊が居並ぶ港が収まる。七月と九月という僅か二ヶ月を置いて撮影されたこの二つの写真は、クライスト・チャーチ始め多くの洋館の建築過程を詳らかにし、横濱居留地建設の急ピッチな有様を如実に記録している。この写真は、横濱港停泊中のイギリス軍艇の中尉に納品され、軍事的な目的で撮影されたのかもしれない。


幕末の貴重な映像記録を数多く遺したベアトだったが、スウェーデン人の血を引くワーグマンとは異なるイタリア人の血が騒いだようだ。ワーグマンとの共同事業を解消し、一八六九年にはバンド一七番に「ベアト&カンパニー」なる自らの会社を設立し、前述の写真アルバム販売に注力する。一八七一(明治四)年、大阪、朝鮮での撮影旅行を終えると、近代化した日本には興味を失ったかのように写真から離れていく。やがて不動産、貿易という投機的な事業に手を染め、初代グランド・ホテルのオーナーの一人にも名を連ねた。洋銀相場で財を成しつつも、一八八四(明治一七)年、日本政府のデフレ政策で洋銀相場が落着くと、米相場に手を出し大失敗する。そんなベアトを、友人ワーグマンは冷徹な目でポンチ絵に描いた。全てを失ったベアトは横濱を離れ、再び従軍写真家としてスーダンに赴き、一旦イギリスに帰国後、ミャンマーに渡り、写真館と家具・骨董商を細々と営んだ。その後の足取りは不明だったが、一九〇九年にフィレンツェで逝去した死亡報告書が、近年発見された。


凄惨な戦場を掻い潜りながら辿り着いた極東の小さな島国は、ベアトにとってジェイムズ・ヒルトンの描き出した架空の桃源郷シャングリ・ラそのものだったに違いない。そして当時の日本は、小説中のシャングリ・ラそのままに、一度失われれば決して取り戻すことのできない、限られた時間と空間に存在した楽園だった。時は下り、ロバート・キャパが不慮の死の数週間前に滞在していた敗戦復興直後の日本も、ある意味では、儚い花のような一瞬のシャングリ・ラの様相を、呈していたのかもしれない。

(第二回終)

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