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横濱・コスモポリタンの群像

【2017.06】 ヒマラヤ杉のある風景
       夢破れた政治家の忘れ形見

「ヒマラヤ杉」
 マツ科ヒマラヤ杉属の常緑針葉樹。ヒマラヤ山脈西部の標高千五百から三千二百メートルの高地を原産とする。建築材料として用いられる他、精油には防虫効果がある。明治十二年頃に日本に持ち込まれ、その播植者の名を冠し別名「グラント松」とも「ブルーク松」とも呼ばれるが、史実としては確たる証跡は残されていない。


幕末から昭和を生きた「知の巨人」、博物学者・南方熊楠(みなかたくまぐす)は、一九〇九(明治四二)年、政府の神社合祀令への反対運動に蜂起する。青年期の留学により米欧の知を貪欲に吸収しながらも、故郷熊野に籠り粘菌の研究に日夜山野を己がフィールドとして渉猟した南方は、神社の杜の神性を守るため、近代国家建設の需要を賄う大樹の伐採が神社の統合政策の真の目的と見抜きこれに徹底抗戦した。彼が目指したものは、西欧近代とは異なる東洋独自の発展思想であり、現代を先取りした「エコロジー」の概念を生み出した根幹に宿るのは、一種のアニミズムを基礎とする、自然との共生の中に育まれるべき思想であった。


幕末から明治に掛けて、欧米文化との接点としての横濱から全国に伝播した数多くの文物のひとつに「あるひとつの風景」がある。それは今なお、全国の学校や官公庁の入口に毅然と聳える大樹「ヒマラヤ杉のある風景」である。その立姿は、神社合祀令に象徴される明治期以降の日本近代化によって都市から排除されていった「大樹の持つ神性」を現在に蘇らせる象徴のようにも見える。
 横濱の住人であれば、その植栽が山手公園に始まり、別名を「ブルーク松」("Brooke"と表記するが英語では「ブルック」と発音する)と称する如く、種を輸入し播種したのが、一八七六(明治九)年から一九〇二(明治三五)年までジャパン・ヘラルド社の社主を務めたジョン・ヘンリー・ブルックと伝えられていることを知る人も少なくはない。


イングランド東部リンカンシャー州に生まれたブルックの父も週刊新聞紙の編集者であった。教育に無頓着な父の下でブルックは六歳で印刷工として奉公に出されるが独学を積み、遂に自由主義的な新聞社の記者となる。
 二七歳で、当時イギリスの植民地であったオーストラリア・メルボルンに移住し、同地の新聞記者となった。


そんなブルックに転機が訪れるのは、記者の傍ら副業で営んでいた日用雑貨販売を起点に、一八五四年開催のヴィクトリア州博覧会の監督に就任したことを契機として、政界入りを果たしたことだった。
 イギリス産業革命は一方で格差拡大と犯罪の増加を生んだが、巷に溢れた犯罪者の流刑地となったのが植民地オーストラリアだった。先住民アポリジニを迫害し私有地化を進めたのは囚人と共に入植した将校と富裕層だったが、彼等は、刑期を終えた囚人や自由移民に土地を無償提供し独立自営農民による社会建設を目論んでいたイギリス政府と対立し、既得権者として激しく抵抗した。ブルックの政敵はこうした将校や富裕層の保守勢力であった。


不安定な政情下、ブルックは自由主義を標榜する政治家として頭角を現していく。保守派が多数を占める評議会(国会に相当する)の反対の中、富裕層の私有地を弱小農家に開放する法案を提唱する首相を担ぎ上げることに成功するとブルックは大臣に任命され、労働者保護諸施策を矢継ぎ早に推し進めた。その後、自由主義派首相が退陣し、保守派との政権争いが繰り返される中、再び自由主義派の首領を担ぎ上げて首相にしたものの、ブルックは持前の舌鋒鋭さの故にこの首相に疎んじられ、政界より排除されてしまう。


こんな政界の泥仕合に絶望したブルックは、メルボルンを離れセイロンに一時期滞在し(この間ブルックは頻繁にインドに旅行している)、一八六七(慶応三)年に来濱し、一八七〇(明治三)年には『ジャパン・デイリー・ヘラルド』の編集長に、そして後に社主となる。オーストラリアでは自由主義者であった筈のブルックは、「日本政府の法的措置は未熟である」として明治政府が当時の欧米列強と進めていた条約改正による治外法権撤廃反対の論陣を同紙上で張ることになる。彼の自由主義も所詮限られたコロニー内での裁量権の拡大に過ぎなかったのかもしれない。


ブルックはメルボルン移住前からの伴侶である妻との間に三男三女を設けていたが、長女ガーティは横濱の社交界で目立つ存在となり、イギリス海兵隊として来日し除隊後、横濱居留民の公共事業に取り組んだウィリアム・ヘンリー・スミスが彼女のハートを射止めることとなった。スミスは、後に触れる横濱の社交場「ユナイティッド・クラブ」創設者でもあり、グランド・ホテルの総支配人も務めた。彼が「横濱居留地改造及競馬場墓地等約書」第十条に定められながら遅々として進まなかった公園建設の旗振り役となり、山手公園が造園されることになる。
 この居留地約書というのは、横濱開港後の一八六六(慶応二)年に横濱居留民のアメニティの向上を目的に幕府と交わされた居留地整備の約定書であったが、その履行は著しく遅れ、居留民は限られた居留地の中で息苦しい生活を強いられていたのである。


スミスが携わった山手公園の整備にあたり、ブルックがこの公園造園のために一八七九(明治十二)年にヒマラヤ杉の種子をインドから持ち帰り、播種した事実を示す資料は遺されていないが、既に本国イギリスでは植民地インドから持ち帰られたヒマラヤ杉が植樹されていたことや、ブルックが度々インドを訪れた事実から、娘婿の公園事業のためブルックが最初のヒマラヤ杉を持ち込んだ蓋然性は高いといえるだろう。


 時は下り、一八九四(明治二七)年、横濱居留地の洋種植物の栽培に始まり鈴木卯兵衛によって設立された「横濱植木商会」がヒマラヤ杉の苗木一五〇本を売り出すものの、未だその知名度は低くて販売に至らず、全国の学校や公官庁に無償で配布することになった。これが山手公園の鬱蒼としたヒマラヤ杉の風景が全国に伝播することになった契機と考えられる。因みに、日本人に積極的にヒマラヤ杉の苗木が受け入れられるようになるのは、関東大震災以降のことである。


夢破れた政治家、ブルックは来濱後、『ジャパン・デイリー・ヘラルド』を舞台に条約改正反対の論陣を張った。これは、洋行より帰国後、和歌山県田辺に隠棲し、日本が西欧型近代化をなぞる事を是とせざるが故に条約改正に反対した南方熊楠と軌を一にするように見えるのは、単なる偶然なのだろうか。荒俣宏はこう語っている。西欧の教会は神の居所である天に近付くように高層の塔を建て、近隣に巨木を植えることを拒む。一方で、南方熊楠が神社の杜を守ろうとしたように、自然と一体化した神社や寺院の大樹にこそ東洋の神性が宿るのだ、と。


ヒマラヤ杉は原産地域の宗教であるヒンドゥー教でも聖なる樹と崇められ、寺院とその周辺の造園に使われることが多い。正に、南方が熊野の聖なる神社の杜に見た風景は、インドに重なっている。ブルックという西欧人の手によって、一旦近代日本の都市から排除されたこの「聖なる樹」が蘇ったのは皮肉な事実かもしれない。私たちが、ヒマラヤ杉をその門前に植栽した学校や公官庁に感じるある種の畏敬の念は、この東洋的な宗教に根差す潜在意識とは決して無縁ではなかろう。


前回ご紹介した渡辺京二『逝きし世の面影』の中で幕末・明治の日本を賛美した西欧人達の多くは、日本古来の美風を破壊しつつある西欧近代化に疑義を差し挟んでいる。西欧人であるブルックが、オーストラリアからセイロン、インドを経て日本にやって来る過程で、或いは南方熊楠と同じ志向を抱くようになった、と考えるのは大胆な推論だろうか。

(第三回終)

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