公益社団法人横浜中法人会
 
公益社団法人 横浜中法人会 住所:横浜市中区不老町2-11-8 税経研修センター TEL:045-662-6433 FAX:045-641-8222
HOME 法人会概要 入会のご案内 サービス 行事予定カレンダー 他会行事予定  
公告の掲載について
横濱・コスモポリタンの群像

【2017.09】 外交官たちの岐路
       日米和親条約、そしてラウダーとサトウ

「日米和親条約」
 アヘン戦争後、中国を実効支配していたイギリスに遅れをとったアメリカは、一八五三(嘉永六)ペリーを派遣して二百余年に亘り門戸を閉ざしていた日本に開国を迫り、翌年日米和親条約が締結された。これを皮切りに、イギリス、フランス、ロシア、オランダとも相次ぎ和親条約を締結。一八五八(安政五)年には五か国と修好通商条約が締結され、日本は本格的な海外貿易へと踏み出す。


実に奇妙なことだが、日米和親条約には「正文」が存在しない。日本側交渉当事者は大学頭・林 復斎、米側は広東からペリーに同行した宣教師ウィリアムズ。いずれも漢文の素養を持ち、日本語や英語に代わる言語として漢文で条文交渉を行った。一八五四(安政元)年三月三十一日(旧暦三月三日)の調印に当り、日本語、漢文、オランダ語、英語の条文が準備されたが、日本側は日本語版を正文と主張し、全権・松崎応接掛はこれにしか署名しなかった。一方で米側は英語版を正文と主張してペリーはこれにのみ署名し、双方全権の署名した正文が存在しない事態に至る。米国議会での批准に際し問題視されることになるこの事態は、ある意味で日本開国を象徴している。日本との外交・通商に臨む西欧列強にとっての最大の障壁は日本語だったのである。


この逸話は、横濱を始めとする開港地の中華街にも密接に関係する。条約締結後いち早く極東のこの市場への進出を目論む列強の貿易商たちは、条約締結の例に倣い上海・広州・香港で「買弁」と呼ばれる中国人通訳を雇い、漢文による通商交渉のために日本に随行させた。開港一年半後の一八六一(文久元)年時点で、横濱には一二六人の外国商人に対し、約百人の中国人が暮らしていたと言われる。開港地に中華街を形成したのは彼らだった。


一八五八(安政五)年、和親条約に引続き修好条約が締結されると、イギリス外務省は中国、日本に勤務する新卒の通訳生を採用する。当事のイギリス外務省は本省勤務と在外勤務に大別され、後者は外交部門と領事部門に区分された。本省勤務と外交部門の人事的交流はあるが、外交部門と領事部門との間には厳然とした階級が存在した。つまり、ごく一部の例外を除き、これらの間を跨るキャリアは想定できなかった。通訳生はこの領事部門の最下位の役職である。外交部門は主としてユニバーシティから、領事部門はカレッジからの推薦を受け採用試験を実施した。 第一回目の一八六〇年に採用されたのがジョン・フレデリック・ラウダーであり、翌年採用されたのがアーネスト・メイソン・サトウだった。かくしてカレッジ卒の通訳生として、幕末混乱期日本に投ぜられた若い二人は、その後数奇な運命を辿ることになる。


ラウダーは一七歳で外務省通訳生として採用されると、先ず上海に駐留し、オランダ語と日本語の訓練を受ける。通訳生にとって最優先の課題は派遣対象国の言語を覚え外交交渉の役務に叶う通訳官として正式採用されることであった。来日直後には、第一話でご紹介したワーグマンが遭遇した、当時の英国公使館、高輪・東禅寺襲撃事件にも居合わせピストルで暴徒に応戦している。 開港直後に来濱したのは貿易商に加え布教の使命に燃えた宣教師達だった。その急先鋒は、一八五九(安政六)年四月に来日し、後に居留地で医師・教育者として名を残すアメリカ長老派教会のヘボンであり、彼は横濱居留地の整備まで神奈川・旧東海道沿に近い成佛寺に仮の宿を与えられていた。 ヘボンに遅れること六か月、アメリカ人宣教師サミュエル・ロビンス・ブラウンがヘボンの住む成佛寺にやってきた。本堂右手の庫裡を間借りすると約二ケ月後には上海から妻エリザベス、更に遅れて二十歳を迎える才気溢れた娘ジュリアと二人の弟がやってきた。若い女性の少ない居留地でジュリアはひときわ目立つ存在だった。江戸、神奈川の方々で攘夷の志士による外国人襲撃事件が相次ぐ中、ジュリアは乗馬で遠乗りをしては人々を驚かせ、また礼拝日には華麗な指捌きでオルガンを弾いて耳目を集めた。


着任したてのラウダーは宣教師ブラウンの日曜礼拝に来るうちにジュリアと秘密裏の交際を始めるが、これは父ブラウンの宣教師としての地位を脅かすスキャンダラスな事件に発展する。ジュリアがラウダーの子を身籠ってしまうのだ。 実はラウダーの父も宣教師で、上海のイギリス領事館付牧師だったが赴任後一年で妻子を残して事故死する。ラウダーの母は女手ひとつで息子を育て上げたが、丁度この事件が発覚した時、イギリス駐日公使オールコック卿と再婚することになっており、国籍と身分を越えたこの結婚に猛反対したのだ。 このゴシップはブラウン牧師の派遣元であるオランダ改革派教会・香港のスミス司教にまで伝わり、司教はブラウン牧師の帰任と、若い二人の離日を求めた。 しかし二人はこの苦難を乗り越え、一八六二(文久二)年九月十三日、神奈川・イギリス領事館での結婚を許された。ジュリア二二歳、ラウダー一九歳の若い夫婦の誕生である。新婦出産の僅か二日前のことであった。


 そして実に皮肉なことに、イギリスを始めとする西欧列強を巻き込んだ幕末動乱の発端ともいえる生麦事件が起こるのは二人の結婚式の翌日であった。 リチャードソン他三名のイギリス人が江戸から京都に向かう薩摩藩・島津久光の行列を横切って殺傷されたこの事件は、ラウダーの一年後に来日していたサトウ共々、補償交渉に始まり、一八六三(文久三)年八月の薩英戦争、そしてイギリス・フランス・オランダ・アメリカによる同年五月と翌年七月の下関砲撃へと二人の駆け出し通訳官を巻き込んでいく。 当時、フランスは幕府・佐幕派を支援し、イギリスは尊王・倒幕派に加担したとされるが、サトウの日記によればイギリス公使パークスは本省より日本の国内問題には中立的立場を貫くよう指示を受けていた。つまり、イギリスの立場は必ずしも尊王・倒幕派を支援するものではなく、日本が早く政治的統一を図り平和裡に対外貿易を拡大してイギリスに利益をもたらすことを最大の関心事としていたと解釈すべきであろう。


しかし、ラウダーやサトウは必ずしもそうではなかった。例えばサトウは「ジャパン・タイムス」に匿名で三回論説を寄せ、日英修好通商条約を締結する権限は天皇にある、とその正当性を主張した。これが後に『英国策論』として翻訳・出版されイギリス対日政策の公式見解のように取り扱われた。 ラウダーについても同様のことが言える。ラウダーは函館領事館勤務の一八六五(元治二)年四月、所用で滞在中の長崎で、グラバーの支援でイギリスに密航しようと目論んでいた高杉晋作、伊藤博文に対し、政権交代も近いので思い留まるよう忠告している。ラウダーは前年まで長崎領事館に勤務しており、下関砲撃の際の通訳官として尊王・倒幕派の志士たちとの関係を深めたものと考えられる。利発な妻ジュリアも積極的にこの関係に加わったと言われている。


幕末の混乱期を経たラウダーとサトウのその後はどうだったろうか。ラウダーにもサトウにも、所詮総領事止まりの通訳官の仕事に見切りをつける契機が何度か訪れた。 サトウは通訳官から書記官へ、バンコク総領事から公使に転じたものの、ウルグアイ、モロッコ公使と転勤し、一八九五(明治二八)年、漸く在日公使に登り詰めた。日本語と国情に精通した技量への特別な処遇であった。その後、数回の帰国と来日を繰返し日露戦争による日本の国力の膨張を見届けてイギリスに帰国し、隠棲の晩年を過ごした。 一方のラウダーは、大阪副領事、新潟代理領事、横濱領事を歴任したが、一八七〇(明治三)年、賜暇を申し出てイギリスに戻り、弁護士資格を取得する。やがて明治政府雇用となって横濱税関の法律顧問となり、一八八九(明治二二)年より居留地の法廷弁護士として活躍したが、一九〇二(明治三五)年、五九歳の誕生日を目前にこの世を去り、山手外国人墓地に葬られた。ジュリア夫人は後年、逗子に住み横須賀の基督教会で日本海軍軍人への布教活動を続けたという。幕末の志士たちへの思いが重なっていたのかもしれない。

(第四回終)

会員情報
会員リスト
会員専用メニュー
会員専用 会員リスト
メールアドレス登録
操作マニュアル
部会
青年部会
社会経済の動き
 

-天気予報コム- -FC2-
社団法人横浜中法人会
Copyright (c) 2004-2006 Yokohama Naka hohjinkai All rights reserved. Produce by saipri