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横濱・コスモポリタンの群像

【2019.10】 ロティの残り香
       「赤い靴」の原風景を探る

「ピエール・ロティ」
 フランスの作家。本名ジュリアン・ヴィオ。父親の不慮の投獄による貧窮から無償の海軍学校を出て世界各地を巡り、これを小説化し有名になる。三五歳(明治十八年)、四〇歳の二度に亘り海軍士官として来日し『お菊さん』『秋の日本』など日本を題材とした小説を著す。「江戸の舞踏会」は芥川龍之介や三島由紀夫により翻案され、日本文学にも多大な影響を与えた。


山手駅改札を北方小学校側に出て線路沿いに坂を上ると右手の鬱蒼とした森に蔽われて門扉が見える。根岸外国人墓地。通用口より入ると正面右手の石柱の上に青いブロンズ製の「片翼のエンジェル」のオブジェが見える。山崎洋子が『天使はブルースを歌う』とその続編『女たちのアンダーグラウンド』で描いた、生後直ぐ墓碑なく葬られた戦後ハーフたちの慰霊碑である。生き抜けたものの親に遺棄されたハーフたちは差別に晒されつつも養護施設に育ち、欧米の里親の養子として旅立っていった者も少なくない。童謡「赤い靴」の異国への畏怖と憧憬の交錯した感情が、彼らの後姿に重なる。


一八六二(文久二)年の生麦事件を契機に居留民保護の名目で翌年五月、英仏軍が山手に駐留を始め、これは一八七五(明治八)年まで続く。この間、兵站と威圧のために港には外国軍艦が頻繁に停泊した。そんな中、一八七四(明治七)年九月、フランス艦隊デクレス号で来濱したのが二九歳のデュバール大尉だった。彼は横濱滞在の十四ヶ月の体験をもとに『絵のように美しい日本』(抄訳『おはなさんの恋―横浜弁天通り一八七五年』)を著す。

二二歳の同僚マルセルと非番に横濱居留地を渉猟するうち、弁天通りにある骨董屋の娘「おはなさん」と運命的な出会いをする。主人の三谷には二人の娘がおり、姉の「おさださん」(挿画中左側)は既に運用所の役人、上野と結婚しているが、十六歳の妹は父親と同居し店を手伝っていた。二人が骨董品を求めて通い詰めている間に、マルセルとおはなは相思相愛の関係となる。


三谷家との家族ぐるみの交友に恵まれ、日本の習慣、民間信仰や演芸に親しむことで二人の日本文化への理解と、マルセルとおはなの愛が深まっていく中、遂にデクレス号が中国への召還命令により離濱する日がやってくる。離別の悲嘆に暮れたマルセルは直接会う勇気も湧かず、代わりに主人公が出立をおはなに伝える。艦は神戸、長崎を経て上海へと辿り着く。当直のマルセルを船に残し上陸した主人公は、家族にも内緒で遥々上海までやって来たおはなと偶然巡り遭うが、マルセルとの再会は得策ではないと判断し、彼女を説得して帰国させる。

デクレス号は帰仏を前に上海を出て再び横濱に一時寄港することになった。ところが、骨董店の三谷の元におはなが帰って来ていない。上野の捜索で箱根の親戚の家におはなが隠棲していることを知ると、彼と二人は早速彼女に会いに行く。おはなはマルセルとの再会の嬉しさの余り気を失うが、その喜びを胸に、マルセルへの生涯の愛を貫くために出家する決意を固めていた。


ロティこと海軍大尉ジュリアン・ヴィオが哨戒艦トリオンファント号の修理のために長崎港に入港したのは十年後の一八八五(明治十八)年七月の事だった。一か月後長崎を離れ中国に渡航後、再び長崎、神戸そして十月には横濱に寄港した。約一ヶ月の横濱滞在中には鹿鳴館での天長節舞踏会に招聘される。

ロティは長崎入港と同時に「結婚仲介人」の斡旋で「お兼さん」と同棲を始め、この僅か「一ヶ月の結婚」の体験をもとに『お菊さん』を著したことが、その日記(『ロチのニッポン日記』)より詳らかとなっている。


ロティは日本滞在中デュバール同様、京都、鎌倉、日光、東京と旅行しているが、案内者の説明では尽し切れない知識を既に有しており、デュバール始め多くの先人達の著作を通じ日本事情に精通していたと想像される。長崎での寄港軍人との契約結婚も欧米に広く周知されていたのだろう。尚、ロティも、部下ピエール(作中では「イヴ」、写真中左側)と陸上行動を共にしている。

ロティは茶屋で仲介人の紹介する女性を悉く拒否した挙句、ただお付きで来ていた女性を契約結婚の相手に指名する。驚くべきことに仲介人はその親と話をつけてロティとの同棲に漕ぎ着けてしまうのだ。

渡辺京二は『逝きし世の面影』の中で、性を精神性と切離されたリアリズムと捕えていた江戸期の考え方が、外国人の目には日本人の性への寛容さに映ったと論考している。つまり貞操よりも金銭的リアリズムが彼女の親にとって優先されたのだ。

しかし、ロティはお菊との結婚生活に必ずしも満足していなかった。一ヶ月の結婚生活に終止符を打ちロティが長崎から出港する場面で、その典型的な描写がある。最後の別れの挨拶を、と忙しなく下船して十善寺坂上の貸し家にお菊を訪ねると、部屋に入ってきたロティに気付かず、お菊は前夜渡された銀貨に贋金がないか金槌で敲いて調べていたのだ。


 日本人の醜悪さを描写するロティの筆は容赦ない。例えば仲介人は「顔付は狡そうで同時に間が抜けている。殆ど鼻もなく、殆ど目もない(中略)身体が二つに折れそうなまでに足と直角に胴を曲げる。そこから爬虫の如き小さいささやきを出す。」ましてや女性に対しては差別的でさえある。「あの間の抜けた様子とあのぽちゃぽちゃした顔をした彼女を。あの譬えようもないほど赤くて白い二つの淋しい空地、それが彼女の頬なのであるが、その二つの淋しい空地の上に錐で穴をあけたような、あの小さい二つの目を持った彼女を。」(いずれも野上豊一郎訳)こうしたロティの日本人蔑視は植民地主義(コロニアニズム)として同国のジャポニズム信奉者たちから非難を浴びることになった。


だが、ロティの置かれた位相は複雑である。病弱で小柄なロティは常に自国の中の自分に劣等感を抱いており、それが彼を異国のエキゾティズムへと駆立てた。しかし日本は例外だった。それはある意味、彼と彼の育った家族と非常に相似していたのだ。日本を揶揄する彼の筆致は一種の屈折した愛情表現だった。だからこそ彼はお菊の家族や間貸し主と親密な関係を保ち、そこに慰安の場所を見つけることができたのだ。

もう一つは、彼の置かれた明治十八年日本という時の歪みである。彼が「江戸の舞踏会」で描いた皮相的で醜悪な日本の西欧化は(これは日本人が鹿鳴館を語る際の雛形となったが)彼の愛すべき古き日本を正にこの時、壊滅させつつあった。ロティの先人達が開国の扉を開くことがなければ、外国人に醜態で媚びを売る仲介人も現地妻も存在し得なかった、という一種の自己撞着である。


それを揶揄した「江戸の舞踏会」を芥川は反転させて、鹿鳴館に会したフランス海軍士官と日本人貴族令嬢との行きずりの恋を異文化間の共同幻想として「舞踏会」に描いた。三島は権謀術数に長けた近代日本人の男と義に生きる男女の葛藤の場として「鹿鳴館」を描いた。近代化の先進国に帰属するロティの描く日本人像が刺激となって、追随し従属する日本人から個として自立せんとした日本人像への転換の契機が与えられた意味は大きい。

異文化理解には往々にして好悪の感情が伴うが、それ故に見えてくる事象は価値判断を超えて真実を適確に顕す。「おはなさん」への没我的な愛であれ「お菊さん」への屈折した好意であれ、異質なものへの憧れこそがその真実を捉え得る契機となるのだ。


異文化の狭間に生を享けたエンジェルたちは、双方の文化に疎外される宿命を負いながらも、それらに共鳴しうる唯一無二の架橋となる幸運を背負っている。異文化の狭間に芽生えた愛が、多くの作品を通じてかくも人の心を打つのは、偏狭な自国文化から解き放たれた普遍性へと私たちを誘ってくれるからだろう。「赤い靴」の畏怖と憧憬の相反する感情は、その第一歩に過ぎない。

(第八回終)

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